キハラハント愛の徒然日記

国連平和維持活動、国際人権法、国際人道法、法の支配、治安部門改革の分野で活動するキハラハント愛のブログです。

平和

正義か平和か

現在東京大学で教えていますが
有難いことに
色々な会議や大学での講義にご招待いただくことも多くあります。

先週は関西学院大学と
東京女子大学の講義に。
偶然にも同じような内容での依頼だったので
移行期の正義との関係で
東ティモールやネパールのお話をしました。

日本の大学で教えるようになってから
国連やイギリスの大学にいた頃には聞かれなかったことで
頻繁に聞かれることが2つあります。

1点目は、人権とは西洋的な価値ではないか。
2点目が、正義と平和は対立するのではないか。

このような点を
純粋にどうなのかと考えて質問してくれる
学生さんたちからだけでなく、
既に「正義は平和を邪魔する」と
ご自身の中では答えを出されていると思われる
先生方や実務家の方から本当によく聞かれ、
初めは結構驚きました。

拷問を受けない権利を
全ての人が享受できない理由は何でしょうか。
平和なデモに参加したら
理由も分からず逮捕されてしまうのはおかしいと思うのは
西洋的な価値に偏っているからなのでしょうか。

人権は全ての人が享受でき、
国家との関係において
人々を守る最低限の個人の権利のことですから、
西洋的も東洋的もない、
普遍的なものです。
その適用の具体的な方法には
国による差があるのですが
人権の中核は共有されているものです。

関連して、
本当によく聞くのが
東ティモールでは大規模な人権侵害を行った
インドネシア側の加害者を訴追することを諦めたから
平和が達成されたのだ、
東ティモールのリーダー達はよくやった、という話です。

そうなのでしょうか。

1999年、東ティモールから独立を決めた後の争乱の後
初めて国連が同地に戻れた際に
私たちはオエクシ州に派遣されました。
大規模な破壊、
人口の4分の1から3分の1が命を失ったという
25年にも及ぶ内戦の後、
避難先から破壊尽くされた街に帰ってきて
衣食住に非常に不自由していた
東ティモールの住民たち。
初めて私たちが「国連事務所」とはり出したA4の紙を見て
何百人もの人たちが連日列を作りました。
彼らが口々に言ったのが
いなくなった夫を探してほしい、
息子を殺害したインドネシア軍の上官を訴追してほしい、
兄が殺されて埋められているので
埋葬するのを手伝ってほしい、
インドネシア軍がどのような指揮体系を持って
どのような指令を出していたかよく知っているから
伝えたい、
何とか訴追につなげてほしい、と、
9割以上の訴えは人権・移行期の正義に関わる訴えでした。
そのとても真剣な訴えに、
これは何とかしなければ、と、
通訳がまだ雇用されていなかったので
覚えたてのインドネシア語と
手伝ってくれた現地の住民の人たちと
時には地方の言葉、テトゥン語からインドネシア語へと
3回の通訳を通じて
ゆっくり理解し、
国連の本部にすぐに伝えなければ、と
コンピュータもまだ支給されていなかった空き家で
オエクシ州で起きた虐殺事件の概要を
手書きでまとめ、
その頃国連が週に2回運行していたヘリコプターの便に乗せました。
それがちょうど折よく
国連の人権部を設立すべく首都ディリに入っていた
当時の人権部長の目に触れ、
数日後には人権部長が
オエクシ州の集団墓地を視察に来たのです。

アカウンタビリティへの願いは
非常に確固としたものとして
一般の住民の中に共有されていました。
そこから訴追に持っていくまでの大変な道のり、
数々の、うまくいかなかったこと。
それは600人以上の人権侵害の被害者たちからの聞き取りと
真実和解委員会の立ち上げや
被害者の支援などをしていた私から見ても
大変歯がゆいものであったことは
間違いありません。
それでもあの住民の人たちの訴えをそのままにして
長く続く平和の基盤が作れるのでしょうか。
インドネシアとの友好関係と引き換えに
彼ら住民の声を置き去りにしたまま
東ティモールは長い平和を築いていけるのでしょうか。
東ティモールのリーダーたちは、
住民たちの声を丁寧に聞き取って行かなければなりません。

先週、ある場面で
「真実か、正義か、と言ったら
彼女は正義だと言うでしょう。」と言われました。

そうではありません。

真実か、正義かということは、
より正確には
どのような真実とどのような正義の形を求めるかということは、
国の主人公である住民が決めることなのです。
真実も、正義も、どちらも捨ててしまうわけにはいかないと思います。
少なくとも東ティモールに関しては
自信を持ってそう言えます。

幸いにも東ティモールの場合は
主に東ティモールの市民団体や地域のリーダーたちの協力と
真実和解委員会の地道な仕事によって、
個人個人と共同体としての「真実」が
記録され、コミュニティとして記憶されました。

東ティモールの国のリーダー達は
住民を取り残すことなく
長続きする平和の基盤を築いていってほしいです。
リーダー達を取り巻く
諸国や国際機関などのリーダー達にも
正義か、平和か、などと煽ることなく
平和への道を
地道に支えて行ってほしいと切に思った次第でした。

国際法と恥

国際法を教えていて、
また、国際人権法や国際人道法を研究・追及していて
毎回あたる壁がある。
それは、現時点においても国際社会というのは国家の集まりであって、
どんなに崇高な規定や原則であっても
国家の意思がないところで
それを強制することができないという壁だ。

そうは言ってもこればかりはあまりにもひどい、と
紛争に入る前の国際法として
他の国家に武力で介入しない(jus ad bellum)、とか、
紛争をやっていても関係ない文民は犠牲にしないようにしよう(jus in bello、国際人道法の分野)とか
ここまで来たら個人の責任を国際法が直接問うべきだという
戦争犯罪、ジェノサイドや人道に対する罪などの国際刑事法などが
人類の失敗の反省をもとに制定されてきたのだ。

もちろん国際法の違反は常にある。

ただ、国際法違反をする各国家が、
国際法は遵守すべきであって
自分の国家は国際法違反を非常な罪だと考えているという
少なくとも表向きの顔があって、
それを元に
国家が自分で宣言した自分の義務をベースにして
国家に責任を問うことができるという、
センシティブではあるものの
何とかバランスを取った枠組みが、冷戦後20世紀の間は機能していたと思う。

近年は、国連人権高等弁務官のザイド氏も言うように
国家が国際法違反をすることに恥も外聞もない。
ウクライナ、シリア、ロヒンギャ、コンゴ(DRC)、そしてガザ。
しかも、それぞれについて、情報はあふれていて、
重大な国際法違反であることはすぐに分析できる状態であって、
重大な国際法違反をしている国家の国民が
自分の国に対して反対意見を表明することについて、
1.規制が強化されていく国、
2.国民が反対意見を表明する意思が弱まっている国、
3.国民が反対意見を表明するのに疲弊、または効果が期待できずしなくなっていく国、
と、多様な要素から、効果が今一つ顕著に出てこないという面がある。
イスラエル兵を写真で撮ったら禁固刑だとか、
ハンガリーで難民に食糧を支援したら処罰されるのだとか、
国内法も国際法違反の可能性の高い内容が次々と。
国際法というのはもはや機能しないのだろうか。

私の指導教官だったフランソワーズ・ハンプソン先生は
「それでも各国は自国の行動を国際法に則って説明している。
明らかな国際法違反であっても、
国際法自体が意味がないというところには至っていないのだ。」と
数か月前のセミナーでおっしゃっていた。

それはもっともなのだけど...
残念ながら、無力感というのは否めない。
国連は国際の平和を推進するために各国の合意で設立されたのではなかったか。
国家が自国民であれ大量に殺戮することは
内政の問題などではなく
人類に対する挑戦なのだと、
国際人権法、国際人道法、そして国際刑事法という分野が
これだけの時間をかけて確立されてきたのではなかったか。

ここは人類にとって、頑張りどころだ。

戦争を抑止することについては、
キング牧師が言っていた、
“Those who love peace must learn to organize as effectively as those who love war.”
本当にその通りだ。
戦争をすれば大きなお金と力が動くから、
戦争をする側は瞬時に結束できる。
平和を持続させることに、
同じような瞬時の結束は期待できない。
だからこそ、セクターを超えて
世代を超えて、息の長い結束をしていかなければ。

1月のパネル・ディスカッション

1月にジュネーブで行われた、
長谷川先生の、東ティモールのリーダーについての本の出版記念
パネルディスカッションの様子を送っていただきました。

こちらです

東ティモールのリーダー達が
平和と発展のために過去のことを問わないことにしたのはどうか、という点について
私は現地での経験を交えながら
コメントさせていただきました。

ありがとうございました。
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