キハラハント愛の徒然日記

国連平和維持活動、国際人権法、国際人道法、法の支配、治安部門改革の分野で活動するキハラハント愛のブログです。

ネパール

国連から教育・研究職へ 「ヒト」を研究する気持ちのジレンマ

国連の安定したポストを離職して
エセックス大学での博士課程を経て
東京大学で研究職・教職についてもうすぐ5年。
東京の大学から
人権侵害や紛争、
また、そのような地で活動する国際機関などについて
「研究」して
それを「教える」ことに、
継続して消化不良な気持ちがある。
いくつかのエピソードで
その消化不良なところが表せるだろうか。

6月末だったか、
ある実践的国際法の授業で、
熱心な学生さんから質問があった。
「旧ユーゴスラビアの紛争では
スレブレニツァの虐殺だけが
『ジェノサイド』として国際的に取り上げられ、
国際法廷でも扱われて
被害者の救済も進んでいるけど、
僕の親戚は死者が2人、
負傷者が何十人という規模の攻撃に合い、
愛する家族を失った悲しみや
味わった恐怖は変わらないのに
救済の手が及ばなかった。
先生、国際法や国際社会というのは
数でしか動けないのでしょうか。
人びとの苦しみや悲しみは
数でははかれないのに。」

そう、
「ジェノサイド」には定義があるし、
「戦争犯罪」だって定義がある。
被害者がどれだけ悲しんだかということは
ほとんど関係ない。
それは私も
実務の中で何千人という被害者やその家族の話を聞く中で、
本当に辛い気持ちになった。
それに、被害者の多くは
司法に救済されない。
彼らの悲しみを聞くことはできるし、
寄り添うことはできるし、
自助を助けたり、
できることをすることはできるけど。

スリランカがまだ内戦状態だった頃、
当時タミルの虎が支配していた北部キリノッチに
プロテクションオフィサーとして
勤務していた。
非常に有能で現実をしっかり分析していた、
私の右腕だった現地同僚の言葉で、
忘れられない言葉がある。
内戦が小康状態になって、
紛争解決・和解・平和構築などの研究のために
多くの研究者が海外から訪れた頃。
彼曰く、
「紛争解決とか、平和構築とか、
僕たちにとっては日常で、生きることだけど、
研究者にとっては僕たちはモルモットのようだ。
でも、いつでも研究しに来たらいい。
5年後でも10年後でも、
僕たちはまだ戦っているから。」

東ティモールでも、
紛争後、首都から近いリキシャ県にいた私達のところには
雪崩のように多くの要人、研究者、ミッショナリーなどが
訪れた。
紛争について、平和について研究するのだと、研究者。
既に現地のコミュニティーリーダーから、女性団体から、
NGOから、警察から、検察から、
多くの人たちから
リキシャ県の教会で起きた虐殺について
何度も何度も話を聞かれている未亡人たちが、
今度は何度も研究者たちに呼ばれて話をしているようだった。
「昨日の午前中はNGOの聞き取り、
午後は国連のある機関の研修、
今日の午前中は警察が来て、
その後カウンセラーが来て、
午後は研究者という外国人が
家を訪ねて来て話を聞かれていたのよ。
先週は別の研究者が話を聞きに来たし。
せっかく未亡人の自助活動として
手芸の事業を始めたのに
そちらに使う時間がなくてね…」と
未亡人グループのリーダーが
微笑みながら言っていたことを思い出す。

国連で働いていてコミュニティに非常に近かった時には、
「ヒト」は遠くから研究するのでも分析するのでもなく、
共に生きる存在だったような気がする。
助けるというような大層なことではなくても、
彼ら・彼女たちと多くの時間を過ごし、
強い信頼関係を築き、
彼ら・彼女たちが首都や国連本部、世界に知ってほしいことを
彼らの立場に近いところから発信できていた気がする。

でも、ある時点でちょっと限界を感じることもあった。
東ティモールから、現地の人たちと非常に近く生きる中で、
そこから国連本部や世界に向かって
直接的に影響のある行動をするのは
難しい。
東ティモールから現地の目線で
現地の人の言葉で
ニューヨークに向かって発信しても
届かないのではないかと。
同じ目的でも、
意思決定をする人達、国家の代表などが使う言葉で、
その様式で、そのマナーで発信しないと
届かないのではないかと。
国際法というのはその「言葉」であり、
「様式」であり、「マナー」なのではないかと。
だから、私にとっては国際人権法も国際人道法も、
人を助けるためのツールでしかあり得ない。
国際人権法も、国際人道法も、
国際刑法も、難民法も、
ツールとしてマスターしてきた。
でもやっぱりそのツールと
あのスリランカ北部や
東ティモールの未亡人団体の生身の人達とは
ピッタリ来ないことがある。
国際法というツールで
分析をするときに
その対象に顔がついてしまうことによる
心理的な問題か。

スリランカ・ネパール・東ティモールなど、
滞在して働いていた国や地域の状況について、
研究者が分析した論文などでも
実は非常にすっきりしない気持ちで読むことがある。
例えば和解の話。
どのコミュニティや地域、国の方が
和解がスムーズに進んだ、
その理由は…と来ると、
それはマクロな話だと分かっていても、
「いやいや、同じコミュニティでも
あの加害者と被害者家族は全くそんなことなかった」
と思ってしまうこともあるし、
「世界の紛争がどのような場合に再発するかということを分析した結果
○○の国は紛争が再発する可能性が高い」
なんて研究があれば、
その国やコミュニティの人達を思い浮かべ、
外から彼らの生命についてそんなことを他人事のように分析していて
非常に申し訳ない気持ちになったりする。

少々別の方面で
ちょっと消化不良なこともある。
それは、
国連や国際機関、国際法などの実態などについて
授業で扱っていて、
「国連や国際法は
時代遅れで全く使い物にならない、
浪費ばかりする無駄なものだ」というような
意見が出るとき。
国連や国際法には問題はたくさんあるし、
それは国連の様々な機関にいた私も
それぞれの問題点を体感してきたから
気持ちは分かる気がする。
でも、例えば東ティモールは
どんな問題があったとしても、
国連がなかったら
インドネシアの占領下から
逃れられなかったし、
1999年8月の住民投票の際に一緒に仕事をした
多くの国連のスタッフたちは
危険と背中合わせの中、
住民を守り、守られながら
献身的に職務を全うしていて、
やっぱりあれだけ全身全霊でやったことは
仕事の域を超えていたし、
あの頃の住民の勇気・結束と
それに答える現地の国連機関、
国連スタッフは
今まで働いてきた中でも
多分一番全うで
人間としてかっこ良かった。
国連について多くの否定的な情報が取り上げられることも多いけれど、
あの時の体験をどう伝えたら良いだろうか。
伝えきれないのだろうか。

実務から来る教職・研究職の人は
誰もが経験することなのだろうか。
それとも私が
研究する対象としてのヒトや機関と
距離を取り切れていないのだろうか。
そもそも距離を取りたくないのかもしれない。

学生さんの質問を聞いて、
そんなことを暫く考えている。

(もちろん現職の良さや楽しさは大いにあるのだが、
それは今までに何度か書いてきたので
そちらを読んでいただければ。)

ネパールの紛争についての報告書が公開になりました


1996年から10年半にわたるネパールの紛争を
人権法と人道法からみた
国連人権高等弁務官事務所の報告書
やっと公開されました。

私は中の2章を担当しましたが、
2年以上の時をかけてやっと公開になった報告書、
ネパールがこれから移行期を経て
国家を再建していくのに
きちんと役に立てて欲しいです。

http://www.ohchr.org/EN/Countries/AsiaRegion/Pages/NepalConflictReport.aspx


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