キハラハント愛の徒然日記

国連平和維持活動、国際人権法、国際人道法、法の支配、治安部門改革の分野で活動するキハラハント愛のブログです。

2018年11月

HSP/ICRC 国際人道法セミナー

11月16日、東京大学大学院「人間の安全保障」プログラム(HSP)と
赤十字国際委員会共催にて、
国際人道法のセミナーを開催しました。
エセックス大学教授で
ICRCの専門家委員会の委員なども務める
Noam Lubell教授をスカイプ経由でお呼びしました。
Lubell教授とはエセックス大学において
同じFrancoise Hampson名誉教授の下で博士号を取得したという
同志としてのつながりがあります。

初めにHSPの運営委員長である遠藤貢先生にご挨拶いただき、
私が15分ほどで国際人道法の基本をお話しし、
Lubell教授に、ドローン、ロボット、自律型兵器、サイバー戦争などについて、それぞれどれだけ国際人道法の「区別」「均衡性」などの原則と緊張関係になるのか、お話しいただきました。

自律型の兵器にもいろいろな種類があり、
自身でターゲットを攻撃することの正当性について判断するような兵器の場合、例えば兵器を持っているけれど負傷して動けなくなっている兵士(保護対象)と、地面に腹ばいになってまさに攻撃しようとしている兵士(攻撃対象)とを的確に区別できるのか、など、
様々な疑問を提示しながらのお話しとなりました。

個人的には、国際人道法とは人道性(humanity)に基づくものであり、
自律型兵器などはその人道性を持ち得ず、
全体的に現在の国際人道法と緊張関係を生む(生んでいる)のではないか、という問いに、
国際人道法は人道性に基づくものではなく、
人道性と軍事的利益との均衡性に基づくものであり、
新しい兵器や戦い方が出てくれば
国際人道法からその合法性を判断することも大事であるが
最終的にはそれを使う人間の倫理の問題になるのではないか、というお話が、それから色々と考えさせられる点となりました。

最後にICRCのリン・シュレーダー駐日代表にご挨拶いただきました。

来ていただいた皆さん、どうもありがとうございました。

IHL seminar
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ハイブリッド論:治安部門改革(SSR) コメント

11月3日土曜日は、国際政治学会の平和研究の分科会において、
「ハイブリッドな国家建設――自由主義と現地重視をつなぐ治安部門改革(SSR)の可能性 と課題」
の討論者を務めました。
SSRの事例を研究し、その過程がどのように「ハイブリッド」になっているのか、「ハイブリッド」の方法について何らかの処方箋はあるのか、というような考察を行うパネルで、
広島市立大学の古澤嘉朗先生の司会のもと、
法政大学の藤重博美先生、立命館大学のクロス京子先生、早稲田大学の小山淑子先生が発表を行い、
大阪大学の中内政貴先生と私がコメンテーターとしてコメントをするというパネルでした。

分科会のプログラムはこちらから見られます。
先生方の発表の内容は会員の方はこちらからできるようです。

以下は私のコメントです。
コメントとして発表していない分も箇条書きでそのまま下記に掲載します。

Process
としてのハイブリッドとresult(結果、内容)としてのハイブリッドと分けて考える必要があるのではないか。藤重先生のプレゼンの図で、現地の主体性と自由主義的価値というのは、この2つの分類と呼応しているように思えたが、それで合っているか。

プロセスとしてのハイブリッドには制度化(institutionalization)という面もあるのだとしたら、治安部門のシステムを制度化するという制度化と、意思決定のプロセスを制度化するというのは、その制度化の中での2つの分類なのではなかろうか。

ハイブリッドを内と外、上からと下から、というように表現して、その交わるところ、またはその交わる過程・方向性、と考えるのであればなかなか何がハイブリッドでどこからがハイブリッドというのは境界線がはっきりしないものであり、グラデーションという考えは適切だと思った。

ハイブリッドという際に、とても気になったのが何をもってローカルとするのか、という点である。国家レベルとコミュニティレベルでは全く違うプロセス・意思希望があることも多く、コミュニティの希望は非常に多様である。国家レベルでのエリート間の力学については触れられていたが、コミュニティレベルでも同じようにエリート間、異なる利益グループや集団間での力学がある。市民社会がコミュニティを代表するといっても、例えばネパールのように、NGOがビジネスとほぼ同義で使われることもある場合、どこからが民意を代表する市民社会なのか、エリートがどこまで他の多様な人々を代表するリーダーなのか、それこそ多種多様である。ハイブリッドというのは、誰にフォーカスするのかによって評価も全然異なるものと思われる。もし事例で取り上げられていた2つのように、主に「国家建設」ということを念頭にこれを考えるのであれば、「国内平定」が大前提であり、SSRは国家の問題であり、コミュニティの問題ではないということになってしまい、社会・コミュニティを構築するということと、国家建設という旗のもとに進められるSSRとの間には必然的な軋轢があるのではないか。そうなると、ひいていえば何をもって「セキュリティ」というか、という問題にかかってきて、それは国家のセキュリティなのか、人間のセキュリティなのか、という問題とつながってくるのではないか。

インターナショナルはリベラル、ローカルは伝統的、という前提への疑問。東ティモールで1999年にまず初めに住民がこぞって国連に訴えかけたのは人権、特に人権侵害の訴追である。これは私が199912月にUNTAETで赴任してまず始めに驚いた事実である。衣食住もままならず、何も食べるものがなくコウモリをパチンコで打ってつかまえて食べたりしていた住民が、国連が帰ってきたと聞くと何百人も列を作って訴えたのが人権侵害の訴追で、そこには東ティモールの伝統的なシステムの話は一切なく、一様に西洋的価値へのあこがれ、人権という「西洋的・国連的」考え方への無条件の賛同、があった。このような、少しずれているかもしれない(実際ずれていた)が「人権」ということを強く打ち出す最もローカルなアクターという存在をどこに位置して考えたらよいのか。

治安改革というと、例えばジョージアの例では旧体制と違うジョージア固有のシステムを、ということが最初から掲げられていたとのことであり、そうするとある程度違うモデルを作るということが前提となっているのではないだろうか。

治安部門は国家主権の核となるものであり、非常に特殊な分野でもあり、必然的にSSRは政治的なプロセスである。そのため、治安部門を例に挙げてハイブリッド論を論じる場合、どのような特殊性があるのだろうか。どこまで演繹できるのであろうか。

プラットフォーム・アプローチというのは、コミュニケーションを取り、利害関係を図ったり交渉したりする場ということの他に何か特に特徴があるのだろうか。これは、東ティモール・ジョージアの例においてはどのように機能したのであろうか。

一般的に言って、結局ハイブリッド論というのを処方箋にするという中で、できることはプロセスについてのみだと思う。ハイブリッドの形式、それぞれが望む内容、などはすべて非常に流動的で、流動的でなければうまくいかない。流動的・フレキシブルであれば、後から修正が可能である。処方箋に反映できるのは、プロセスをどうするかという意思決定のそのプロセスについてのみなのではなかろうか。さらに言えば、その中でもプロセスをどうするかという意思決定のプロセスにおいて、そのプロセスにフレキシビリティを確保するということのみなのではなかろうか。

ハイブリッドのSSRというのは、もともとの社会でどれだけ権力を握っている人がいるのか、それは少数なのか、多数なのか、多様な人たちが力を分け合っているのか、つまり、そもそもどれだけ権力が集中しているのか、ということが非常に重要な要素となるのではないかと考える。関連して、SSRの前提というのは、権力を集約することのみではなく、SSRの中にもvettingrepresentation、民主的プロセスなどもあり、むしろ権力を分散するという改革もある。

ハイブリッド論で警察などの公職についていないが治安確保に貢献するインフォーマル・アクターがあるということが指摘されているが、自警団などのセキュリティに関するインフォーマル・セクターがあるということと、ハイブリッドであるということは何が違うのか。ハイブリッド論の付加価値は何か。

ハイブリッドの形式として、妥協の産物であるということと積極的な折衷案ということの違いは何か。どう線引きをするのか。

民事軍事会社(PMC)の話が出ていたが、PMCがどのようにハイブリッド論に影響を及ぼすか、興味深い。

個々の例について、東ティモールについては、警察(PNTL)について、インドネシア警察にいた東ティモール人を幹部にしたということを強調されていたが、実際にはPNTLの人選の際にコミュニティレベルにおいて、現地のCNRTのコミュニティレベルのリーダーの主導において、「このもと警察官は人権侵害を直接的に行ったか。PNTLに入れてもコミュニティが受け入れをするのだろうか。」ということを11人について非常に丹念にコミュニティのメンバーと確認し、OKが出たもと警察官のみが再び東ティモールの警察PNTLに組み込まれた。また、一番初めのPNTLの警視総監は新しくリクルートされた若いFaustino da Costa氏で、彼はもとインドネシア警察ではないなど、どちらかというと「インドネシア警察とは違う新しい」警察ということで始められたものである。PNTLの中で、新しい若造VSもとインドネシア警察という構造ができたことは否めない。

東ティモールの例は、600年以上も植民地化にあり、ローカルの治安部門どころか行政・立法・政治のキャパシティが非常に低く、その意味で非常に特殊であるため、東ティモールの事例からどこまで演繹できるかというのは疑問である。

私も委員であった2006年の国連調査委員会は治安部門が壊滅状態になった理由を分析しているが、そこでは、国連がSSR、特に国軍の形成について、踏み込まなかったことこそが治安部門壊滅を招いた一端であるとしており、私もそのように考える。つまり、ローカル(この場合その中でもFALINTIL並びに独立紛争のリーダー、ベテラン)の意見を無条件に聞きすぎてしまったがゆえに失敗したのだという分析である。

東ティモールの場合は良い例かと思うが、ローカルの意見、下からの意見ということを問題にする場合、では「ローカル」が存在しない場合はどうなるのか。この場合もいくつかの分類があり、「ローカル」を代表する者・代表者・リーダーがいない場合もあると思うが、例えば2006年の東ティモールの場合、PNTL(警察)は幹部が逃げてしまい、総崩れになった。

東ティモールの例で村警察が導入され、コミュニティ・ポリシングが導入されたということだが、ローカルな警察的システム、ひいては伝統的なシステムは中央集権的であり得、圧力的である得る。コミュニティ・ポリシング委員会というのはもともと東ティモールの村々にある長老が何でも決める属人的な司法・紛争解決・仲介システム(これも非常に多様)をある程度制度化したものであるが、これをどう解釈するのか、は難しい。

植民地時代などでローカル(国家レベル・コミュニティレベル)が外から入ってきた制度や価値をある程度ローカルのものとして取り込むという流れの話、また、東ティモールの住民がインドネシア警察の制度に頼りたがったというような話があったが、制度として知っているというのと、価値として信じるというのは違うのではないか。インドネシアが去った後にまず国家レベル・コミュニティレベルで東ティモールの住民が目指したことはインドネシア警察とは違う価値・システムであったが、実際に制度としてよく知っているのがインドネシアの制度だけだったのではないか。

関連するかもしれないが、東ティモールの場合、ローカルの意思として、内容ではなく、そこに存在する制度への反発ということがあるのではないか。

東ティモールのSSRの場合、その失敗の大きな要因の一つは国際社会が提げた価値や制度の問題ではなく、その制度構築にあたった人材の質、国連警察の質にあるのではないか。2006年の東ティモール危機の際に、ご指摘の通り東ティモールの警察官(PNTL)が軍側の要員によって銃殺されたが、これは国連警察がPNTLを説得し、白旗と国連の旗を掲げて丸腰でPNTLが出てきたところで、国連警察の目の前で起こった。これにより、PNTL、また、東ティモール住民の国連警察に対する信頼は失墜した。

ジョージアの場合、ジョージア民族対非ジョージア民族という構図、SSRはジョージア民族にとってのSSRという認識、という指摘は大変興味深かった。これはSSRの内容のフォーカスを国家レベルに設定していることの結果ではないかと考える。

ジョージアの場合、ロシア語で権力と武力が同じ言葉だという指摘があったが、これは考え方の一つのindicationであって、SSRのアプローチにも大きな影響を与えているのではないか。文民統制がとても属人的に実践されたということだったが、ハイブリッドの中で、制度やプロセスは外部から取り込めても、その実践(implementation)の方法は必然的にローカルなのではないかと考えた。
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