最近世界中の色々なニュースを見たり聞いたりする度、
ほぼ自動的に悲しさが心を埋め尽くしてしまいます。
色々な紛争地で働いてきて、それこそ熾烈な戦いの後の人々の悲しみや
そこから生まれる強さ、
そういう場所で家族や友人たちがどう協力し合うか、
それなのに他の人たちをどう破壊しあうか、
目の前でたくさんの人たちの命と生き様を見てきたつもり。
それで、そういう中で働いていけて、
少しでもポジティブな変化を作る努力を静かに続けられる、
その土台は持っているつもり。

けれども、今のシリア。
果敢に生き続ける一般市民が
全く関係ない戦いで大怪我をして病院に行けば
病院が攻撃されて、
市民の命を救っている医療関係者まで犠牲になる。
爆撃を受ける街の市民を一人でも多く助けるべく
現地で果敢に活動するホワイト・ヘルメットは
国連でもない、国際NGOでもない、
地元の有志たち。

それを映像でまざまざと見せられ、知りながら、
それに即効性のある対処ができない世界。

シリアだけじゃない。
アフガニスタン。
南スーダン。
イラク。
例を挙げて行けば、きりがない。

荒れる海に命を託し、
小さなボートに何百人も乗ってヨーロッパを目指す途中で一家を海の中に亡くし、
一人でヨーロッパに流れ着く未亡人。

色々な地方で活動を活発化させるただ破壊目的の団体。
何百人という女の子たちが連れて行かれて
それに対してすぐに何もできない世界。

ただ悲しみというにはあまりにも深い、
底のない悲しみ。

それも、同じような境遇にいた人たちをたくさん知っていて、
その人たちの気持ちが私の気持ちに響いてきてしまうから
こんなに自分のことみたいに感じてしまうのだと思う。
それに、仕事と環境上、
周りの友人たちも相当な経験をくぐり抜けてきた人たちが多く、
現在も色々な難しい場所で働いている友人たちも多く、
どこでどんな悲しい事が起こっても、
「あ、あの人が」と、顔が浮かんでしまうからか。

こんな南イタリアの小さな街にも確実に難民が増え、
物乞いをする人たちも増え、
普段はおおむね寛容な現地の住民たちとの確執も増えた。
あの街角でいつも物乞いをしているあの人は、
どんな家族をどこに置いてきたんだろう。
「何でもいいから仕事をください」と何度もお願いに来る
シングルマザーたちの子どもたちは、
いつも忙しいお母さんと最近遊んだことがあるんだろうか。

世界を知らなければ、と日本を飛び出してから、
私の世界は確実に広がったし、
私ができることも着実に広がっているけれど、
悲しみも同時に広がっていることは間違いない。
この痛み、知らなければ良かったような気になることも。

でも、知らなければ何もできないし、
こんなにたくさんの素晴らしい人たちに会うこともなかったんだ。
また気持ちを切り替えて、頑張っていこう。