ふと思うんだけど、
ある国の国民というのは、
その国が対外的に行っていることに対して、
「私には関係ないし、私が悪いわけじゃない」という姿勢でいいんだろうか。

 今、研究しているテーマの中に、東チモールも含まれている。
東チモールに関しては、インドネシア軍隊も、警察も、
確実に、 24年間もの間、大量の殺戮行為を行った。
もちろん、それを、
現地にいたインドネシアの公務員やビジネスマンたちは知らないはずがないし、
公務員やビジネスマンはローテーションで回っているんだから、
かなりのインドネシア人たちが現実のこととして知っていたはずだ。

私たちが燃え盛る東チモールから避難させられた後、
着いたジャカルタでの知人たちの態度は忘れられない。

東チモール、1999年。
散々私たちのスタッフが、
いつも遊びに来ていた子供たちが、
近所の人でいつも夕食をつくってくれていた家族が、
それにいつもお世話になっていた村長さんを始めとするみんなが、
丘をつたって逃げていくのを目の当たりにしながら、
また、彼らの家がインドネシア軍の軍隊によって焼かれているのを目にしながら、
私たちは避難することになった。
私は、私の3人目の通訳君の家が、
正にインドネシア軍によって正に火を着けられているところを見ながら、防弾車で、交通封鎖をしているところを突っ切って、
避難することになった。

そして、ジャカルタ。
私たちを迎えたのは、公職につく人たちだったけれど、
「東チモール、どうだった?」と聞くので見たことを伝えると、
「あぁ、東チモールから帰ってきた人たちは、みんなそう言うんですよね。でも本当にそうなんでしょうか。」

冗談じゃない、と思った。
ジャカルタのエアコンの入ったオフィスで、
あなたが書類を書いていた間に、
何人の人があなたの働くインドネシアの政府の政策によって死んだのか、考えたことがあるのか。
あなたが実際に東チモールで住民に対して銃を撃っていないからって、あなたはそんなに全く関心がなくて、
それでいいんだろうか。

国と国民という関係よりももっと広く言えば、
私たちは、例えばイラクで、アフガニスタンで、ダルフールで、
何が起こっているか、こんなに知らなくて、それでいいんだろうか。
世界って、そういうものなんだろうか。

「命の重さはみんな一緒だ」なんて、
ミスコンで好きな言葉は「ワールドピース」だなんて、
軽く言ってほしくない、と思う。
だって、現状は、命の値段、ある命を守るのにかけられるお金や努力、関心っていうのはものすごく違うじゃない。

(念のため、注。
インドネシアをピックアップしたのは、たまたま私が東チモールにいたからで、インドネシア人を非難しようという意図は全くありません)